「利用者さんのために」と思って始めた介護事業なのに、気がつくとコスト削減や人手不足の対応に追われ、本来の軸を見失いそうになることはないでしょうか。270年以上前、江戸時代の近江の商人たちが商売の本質として書き残した言葉があります。「三方よし」——この精神が、今の介護経営者・管理者に改めて問いかけるものがあります。
近江商人「三方よし」とはどのような精神か
近江国(現在の滋賀県)を本拠地とした近江商人は、江戸時代から明治にかけて天秤棒一本を担いで全国を行商し、豪商へと成長していった商人の総称です。大坂商人・伊勢商人と並ぶ「日本三大商人」の一角を担い、その精神は現在も伊藤忠商事など大手企業の経営理念に受け継がれています。
「三方よし」とは、「売り手よし・買い手よし・世間よし」の三つの利益を同時に追求するという商いの哲学です。自分(売り手)だけが儲かればよいのではなく、お客(買い手)も満足し、さらには地域社会(世間)にも貢献できてこそ本物の商売だ、という考え方です。
この精神の原点は、1754年(宝暦4年)に近江商人・中村治兵衛宗岸が幼い養嗣子に向けて書き残した「書置(かきおき)」全11条にあります。そこにはこう記されています。
「たとえ他国において商売いたし候ても、この商内物、かの国の人々へ相応しく着用いたされ候ように、ただ自分のことばかり思わず、まず先方のためを思い……天道にかない心身ともに健康に暮らすことができる」
(出典:中村治兵衛宗岸「書置」1754年・宝暦4年)
自分の利益より先に「相手のためを思う」。この姿勢こそが、近江商人が長く全国各地で信頼を得た根本でした。
押さえておきたいポイント
- 近江商人は江戸〜明治期に日本全国で活躍した滋賀県出身の商人集団
- 「三方よし」とは売り手・買い手・世間(地域社会)の三者が満足する商いの哲学
- 原典は1754年の中村治兵衛宗岸「書置」にある「相手のためを思う」精神
- 現代では伊藤忠商事など大手企業がこの精神を経営理念として継承している
介護経営に置き換えると「利用者よし・スタッフよし・地域よし」
この「三方よし」を介護事業所に当てはめると、次のように読み替えることができます。
- 利用者よし:利用者・ご家族が「この事業所に頼んでよかった」と心から感じられる、質の高いケアを提供する
- スタッフよし:働くスタッフが「ここで働いてよかった」と感じられる職場環境・処遇・やりがいを整える
- 地域よし:地域の人々が「あの事業所があってよかった」と感じてくれる、地域に根ざした存在になる
介護事業所の経営者・管理者が陥りやすいのは、コスト削減や人員確保の課題が重なる中で、「利用者のため」という軸がいつの間にか薄れてしまうことです。しかし近江商人が証明してきたように、「三つの満足を同時に追う経営」こそが長続きする事業の形です。
実際、介護分野でも三方よしの考え方を経営の軸に据えた取り組みが出てきています。「企業よし・スタッフよし・顧客よし」の優先順位を明確にし、スタッフへの処遇改善を徹底しながら顧客満足と事業継続を両立している介護事業所の事例も報告されています(参考:ゴールデンケア稲毛の取り組み)。
押さえておきたいポイント
- 介護版「三方よし」は「利用者よし・スタッフよし・地域よし」に言い換えられる
- 「利益を出すこと」と「利用者・スタッフを大切にすること」は対立しない
- 地域に必要とされる存在になることが、長期的な経営安定にもつながる
- スタッフが働きがいを感じる職場こそ、質の高いケアの土台になる
「世間よし」が教える、介護事業所の地域貢献
近江商人にとって「世間よし」とは、商売を通じて地域に価値をもたらすことでした。利益を上げながらも地域の人々の暮らしに役立つ商売をすることが、商人としての誇りであり使命でもありました。
介護・障がい福祉の世界でも同じことが言えます。事業所が地域にあることで、高齢者・障がいのある方が自立した生活を送れる。家族の介護負担が軽くなる。地域に雇用が生まれる。地域住民が安心して老いを迎えられる環境ができる——これこそが、介護事業所が地域で果たす「世間よし」の役割です。
経営が苦しい時ほど、目先の数字に集中しがちになります。しかしそんなときこそ「自分たちはなぜこの地域でこの事業をしているのか」という原点に立ち返ることが、経営者・管理者に求められる心構えではないでしょうか。
中村治兵衛の書置にある「天道にかない心身ともに健康に暮らすことができる」という言葉は、「正しい商売(経営)をすれば、自分たちも健全でいられる」という確信を示しています。
押さえておきたいポイント
- 「世間よし」=地域社会に価値をもたらす存在であること
- 介護事業所の「地域よし」とは、高齢者・障がい者の自立支援・家族支援・地域雇用の創出
- 経営が苦しい局面こそ「なぜここで事業をするのか」という原点が問われる
- 「正しい経営をすれば自分たちも健全でいられる」——この確信が経営者の軸になる
介護現場で「三方よし」を実践するための三つの問い
最後に、日々の経営判断の中で「三方よし」を意識するための問いを三つお伝えします。
- 「この判断は、利用者・ご家族にとってよいことか?」——コストを理由にケアの質を落とす判断をしていないか、定期的に問い直す
- 「この職場は、スタッフが誇りをもって働ける場所か?」——処遇だけでなく、「ここで働いていてよかった」と感じてもらえる職場文化があるか
- 「自分たちは、この地域に必要とされているか?」——地域の会議への参加、相談対応、情報発信など、事業所として地域とつながっているか
この三つの問いを時折立ち止まって自分自身に問いかけることが、「三方よし」の精神を経営に活かすための一歩になります。
押さえておきたいポイント
- ケアの質を問い直す視点を経営判断に組み込む
- スタッフが「ここで働いてよかった」と感じられる職場文化を育てる
- 地域とのつながりを意識的につくることが「地域よし」の実践
- 「三方よし」は一度決めて終わりではなく、繰り返し問い直すプロセスそのもの
まとめ
270年前、近江の商人たちが体得した「三方よし」の精神は、介護経営の本質とそのまま重なります。利用者よし・スタッフよし・地域よし——この三つを同時に追い続けることが、長く地域に必要とされる介護事業所をつくる道ではないでしょうか。忙しい日々の中でも、ふとした瞬間にこの言葉を思い出していただけたなら幸いです。
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